朝から、じりじりとした暑さだった。
まだ梅雨も明けきっていないのに、
窓の外ではセミが鳴きはじめ、空気はもう真夏の重さをまとっている。
キッチンに立っているだけで、額に汗がにじむ。
「今年も暑くなりそうだな…」
そうつぶやきながら、リモコンを手に取った。
ピッ。
エアコンが動き出す音。
いつもの、聞き慣れた機械音。
—— なのに。
しばらく待っても、涼しくならない。
出てくるのは、生ぬるい風。
それに混じって、どこか湿った、古い雑巾みたいなにおい。
「…ん?」
思わず顔をしかめた。
こんなに臭ったっけ。
こんなに効かなかったっけ。
去年の夏は、スイッチを入れればすぐに涼しくなって、
家族みんな「生き返る〜」なんて笑っていたはずなのに。
ふと見ると、
リビングの床に寝転がっている娘が、うっすら汗をかいている。
まだ小さい体。
髪の毛が額に張りついて、何度も寝返りを打っている。
「暑い…」
か細い声。
胸の奥が、ちくっと痛んだ。
もっと早く、冷やしてあげられたら。
もっと快適にしてあげられたら。
親なのに、何やってるんだろう。
そんな気持ちが、じわっと広がる。
気になって、エアコンのフタを開けた。
フィルターを外した瞬間、
思わず「うわ…」と声が漏れた。
びっしりと積もった灰色のホコリ。
まるでフェルトみたいに分厚い。
指でなぞると、もこっと固まって取れる。
「こんなに…?」
去年、掃除したのいつだっけ。
思い出せない。
さらに奥をのぞき込むと、
黒い点々。
カビ。
ぞわっと背中が寒くなる。
—— この空気を、毎日吸ってたのか。
自分も、そしてこの子も。
申し訳なさが、どっと押し寄せた。
その日の夜、
寝ている娘の小さな寝息を聞きながら、スマホで「エアコンクリーニング」と検索した。
写真に写る、真っ黒な排水。
「カビ」「アレルギー」「健康被害」の文字。
胸が締めつけられる。
すぐに予約ボタンを押した。
数日後。
作業員さんがやってきて、テキパキと分解していく。
普段は見えない内部が、次々とあらわになる。
「けっこう汚れてますね」
その一言に、ドキッとする。
高圧洗浄機の音が響く。
バシャーッと流れ落ちる水。
バケツにたまったそれは、
想像以上に黒かった。
墨汁みたいな色。
「……これ、全部中の汚れです」
言葉が出なかった。
こんなものを通った空気の中で、
娘は眠っていたんだ。
守っているつもりで、
何も気づいていなかった。
情けなくて、少しだけ泣きそうになった。
数時間後。
「終わりましたよ」
ピカピカになったエアコン。
半信半疑でスイッチを入れる。
ウィーン…
そして。
ふわっ、と風が流れてきた。
冷たい。
やわらかい。
そして—— 無臭。
ただ、きれいな空気のにおい。
こんなに違うのか、と驚いた。
部屋の温度が、すっと下がる。
重かった空気が、軽くなる。
帰ってきた娘が、
「なんか今日、気持ちいいね!」
って笑った。
その笑顔だけで、全部報われた気がした。
その夜。
娘は一度も起きずに、ぐっすり眠った。
汗もかいていない。
小さな手をぎゅっと握ったまま、安心した顔。
その寝顔を見ながら、静かに思った。
エアコンって、ただの家電じゃないんだ。
この子の眠りを守って、
笑顔を守って、
家族の毎日を守ってくれている。
「空気」って、目に見えないけど、
いちばん大事なものなのかもしれない。
だから。
来年も、ちゃんと掃除しよう。
面倒でも、後回しにしないで。
この子が「気持ちいいね」って笑ってくれるなら、
それだけで十分だから。
涼しい風が、そっとカーテンを揺らした。
静かな夜。
やっと、心まで軽くなった気がした。

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